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「水泳部特集」完結!
 『市大ナビ』にて連載されてきた「クラブ・サークル特集Vol.2 水泳部」が、先日漸く完結しました。



 シーズンが完全に外れた頃になってやっと完結ということで、関係者の皆様には掲載が遅れご迷惑をお掛けしたことを、心よりお詫び申し上げます。
 それはさておき個人的には、これは『市大ナビ』での最後の仕事と思って、デザインなど気合を入れたんですよ。それが終わった今、某スタッフ(というのはもちろんユータロー)からの原稿をHTML化するという苦痛から開放された、という喜びに浸ろうと思います。

P.S.ユータローからの「余力があったら云々」というメールによって、安らかなる日々には呆気なく終止符が打たれた。
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| 【2008/02/03 14:32】 | 市大ナビ | 被参照(0) | 意見(0) |
【祖父に】シベリヤ抑留【聞いてみた】
 筆者の祖父は抑留体験者である。祖父の書斎には、海部元首相の「抑留お疲れ様」という内容の書状が飾られている。
 今回は、筆者がこれまでに何回か聞いたことがある祖父の体験談を纏めてみることにした。

Q.戦時中は何をしていたか。
A.野戦郵便員の募集に応じて支那へ渡った。満洲から北京、天津の辺りを郵便物と共に列車で往復していた。
Q.ソ連に捕まった時はどこにいたか。
A.奉天。送られる前に、まず健康かどうかの検査をされた。検査と言ってもただ体格を見て外見から判断するのみである。合格したものは手招きされ、連れて行かれた。どこへ行くのかも分からなかったので、捕虜仲間に別れの挨拶をすることもできなかった。豆満江河口付近の港から船に乗せられた。日本に帰して貰えるとの一縷の望みもあったが、船の進行方向から見て左手に常に陸が見えていたため、日本に向かっていないことが分かった。到着したのは浦塩だった。17歳頃のことである。
Q.作業はどんなものであったか。
A.始めの頃は捕虜の食事係を経験した。しかし食事係は他と比べて割のいい仕事であったので、いつまでもさせてはくれなかった。他には農作業もあったが、一番恐ろしかったのは炭鉱での掘削作業であった。地下100mぐらいのところで坑木を組み、それを足場にして石炭を掘る。掘った石炭は下に落としてまとめてトロッコに積載し、地上に揚げた。落盤の危険と隣合せの作業であった。
Q.舞鶴に引き揚げた時の様子はどうであったか。
A.舞鶴港で共産党員が待ち構えていたのには難儀した。共産党員はソ連と連絡を取り合い、帰還者を入党させようとして詰め掛けていたのである。親族と党員による帰還者の取り合いが繰り広げられた。(祖父は)幸い親族が大勢迎えに来てくれていたので、無事に帰ることができた。
Q.入党させられた人もいたか。
A.シベリヤでの厳しい生活を知っているので、入党した者は少ないであろう。
| 【2008/02/03 13:33】 | 政治史・外交史 | 被参照(0) | 意見(0) |
舞鶴地方総監部訪問+「みねゆき」
 一月二七日、舞鶴地方総監部ご訪問。総監部や併設の海軍記念館に関する丁寧な解説をいただいた。

舞鶴地方総監部第一庁舎



 そして、停泊中の護衛艦「みねゆき」を見学。(右に見えるのは補給艦「ましゅう」。第三護衛隊群「みねゆき」「じんつう」と共に映画『男たちの大和/YAMATO』撮影に協力)


DD-124「みねゆき」
 「はつゆき」型の第3番艦。昭和57年長崎造船所にて進水、昭和59年竣工。本艦は「みねゆき」として第二代目(初代は昭和27年に海保から移管された交通船)。
基準排水量:2,950噸
速力:30節
主要兵装:
 OTOメララ62口径76mm単装速射砲x1
 20mm CIWS(レイセオンMk.15ファランクス)x2
 MK29 8連装シースパロー発射機x1
 4連装ハープーン発射機x2
 8連装ASROC発射機x1
 MK32 3連装短魚雷発射管x2

 欲を言えば艦の中も見せていただきたかった。甲板は寒すぎる…
 とはいえ、我々一行のためだけに艦を公開して下さった総監部と「みねゆき」の皆様には、心から感謝です。
| 【2008/02/01 23:54】 | 兵噐・技術 | 被参照(0) | 意見(0) |
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