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日本の地政学(概要)二
■東京学派/京都学派地政学

 Haushoferの地政学ないし独逸学派地政学が日本で初めて紹介されたのは、1920年代のことであった。地理学者飯本信之(1896-1972)は大正14(1925)年、Geopolitikを「地政学」と翻訳しその意義の一端を論じた。更に1930年代後半には日本で本格的に「ハウスホーファー・ブーム」が始まり、Haushoferの東アジア・日本関係の著書の大部分が翻訳された。
 しかし独逸学派地政学は、必ずしも無批判に受容されたわけではない。独逸学派地政学の中に「欧羅巴的覇道主義」を見出し、これとは異なる「日本地政学」の構築を企図した一派があった。京都帝大教授小牧實繁を中心とするいわば地政学の「京都学派」である。小牧によると日本地政学は、「覇道」ではなく「世界の万邦をして各々其の堵に安んぜしむと仰せられた如き皇道の顕現」に翼賛すべきものであり、「世界本然のあるべき姿」即ち一種のアジア的農業社会を基盤とする運命共同体を顕示することにより達成されるものであった。京都学派地政学成立の背景としては、当時一般的な傾向として存在していた「日本主義」、「日本学」の隆盛を指摘できるが、同時にそれはいわゆる「汎亜細亜主義」と地政学との交叉であったとも言える。
 以上のような京都学派地政学は「(Ratzelの思想のうちに流れている)浪漫的見解」を展開するものであったと言われるが、これに対し政策科学としての地政学を目指す「東京学派地政学」も存在した。この一派は昭和16(1941)年11月に日本地政学協会を設立したが、前述の飯本はその代表的な一人であった。

 東京学派・京都学派がそれぞれ独逸学派地政学を批判しながらも受容を試みたのに対し、独逸学派地政学の受容そのものを拒否する地理学者もあった。飯塚浩二(1906-1970)は、独逸学派地政学の「地理的決定論」によって「社会的・歴史的存在としての人類の存在は抹殺される」ことを指摘した。この「方法論的欠陥」の指摘は、独逸学派地政学に対しては的を射たものであったとしても、その欠陥は凡そ地政学が不可避的に持つものであるか否かに関しては疑問の余地がある。

■東亜共同体論

 昭和研究会の東亜共同体論については、論者により若干の主張の相違があるが、ここでは代表的な東亜共同体論者として東京帝大教授蠟山政道を取り上げる。蠟山によれば、西洋のナショナリズム理論に基づいて設立された国際連盟やワシントン体制は「東洋を東洋として認める地域主義」を排除するものであった。しかるに中国国民党は、この西洋ナショナリズムを「平和と建設の究極原理」と誤解することによってそのまま受容してしまったのであり、この誤れる支那ナショナリズムを超克することが「地域主義」の使命である、というのである。従って、支那事変及び大東亜戦争は「東亜に新秩序を建設せんとする道義的理念的目的を有している」「聖戦」であるという認識となる。
 この蠟山理論は、近衛文麿の「東亜新秩序」声明を理論化・具体化する機能を果たすものであり、従ってそれが日本の外交政策に与えた影響は甚大であったと言えるであろう。

(おしまい)

参考文献
  • 三輪公忠編『日本の一九三〇年代』創流社、1980年

  • クリスティアン・W・シュパング「カール・ハウスホーファーと日本の地政学 第一次世界大戦後の日独関係の中でハウスホーファーのもつ意義について」『空想・社会・地理思想』第6号、2001年、pp. 2-21

  • 加藤陽子『戦争の近現代史』講談社、2002年

  • 大塚桂『大東亜戦争期の政治学』成文堂、2007年

  • 工藤章・田嶋信雄編『日独関係史 一八九〇-一九四五 Ⅰ』東京大学出版会、2008年
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ジャンル:政治・経済‐テーマ:軍事・平和

| 【2008/06/22 12:42】 | 地政學 | 被参照(0) | 意見(3) |
日本の地政学(概要)一
 本稿においては、明治時代から大東亜戦争に至るまでの我が国における地政学(ないし地政学的言説)を概観する。ここで、体系化された学問としての地政学のみならず、日本外交に対し一定以上の影響力を及ぼしたと考えられる「地政学的言説」をも取り上げるのは、1940年代の学問としての日本の地政学を紹介するのみでは、明治以来の日本の地政学的環境を考察する上であまりにも「地政学」を狭く捉えすぎることになると考えられるからである。

■主権線・利益線論

 山縣有朋は明治23(1890)年3月、意見書「外交政略論」において「主権線・利益線論」を提示した。

国家独立自衛ノ道二ツアリ一ニ曰ク主権線ヲ守禦シ他人ノ侵害ヲ容レス二ニ曰ク利益線ヲ防護シ自己ノ形勝ヲ失ハス何ヲカ主権線ト謂フ疆土是ナリ何ヲカ利益線ト謂フ隣国接触ノ勢我カ主権線ノ安危ト緊シク相関係スルノ区域ナリ


山縣は、国家の自衛のためには、「主権線」即ち「疆土(国土)」及び「利益線」即ち「隣国接触ノ勢我カ主権線ノ安危ト緊シク相関係スルノ区域」の防衛が必要であると主張する。そして日本にとっての利益線とは、朝鮮半島を指す。加藤陽子氏は、山縣の以上のような議論が生まれた背景として、オーストリアの国家学者Lorenz von Stein(1815-1890)の影響を指摘する。山縣がその「軍事意見書」についてSteinに意見を求め、その回答書である「斯丁氏意見書」の趣旨を取り入れることにより「外交政略論」が成立した、というのである。
 ここでは、Steinの国家学がRatzel或いはKjellenに始まる独逸学派地政学に与えた直接的な影響を指摘することはできない。しかしそこには既に、独逸学派地政学の核心部分たる「Raumの支配」と共通する思考を垣間見ることができ、また山縣の「主権線・利益線論」は、我が国において初めて「独逸的」な地政学的概念が輸入され、しかもそれが政策化された例と考えることができるであろう。

■新旧大陸対峙論

 日露戦争後、初代満鉄総裁時代から後藤新平は「新旧大陸対峙論」を唱えていた。これは「新大陸」アメリカによる介入を防ぐため、「ユーラシア大陸同盟」を結成して日本の安全保障を確保するというものであった。そしてその「ユーラシア大陸同盟」は日露支によって形成されるべきものであり、且つそこに独逸が加わる可能性も考慮されていた。このような発想がどのようにして生まれたのかという問題については別途検討の必要があるが、この構想の独特さ、及び日ソ国交樹立など実際の日本外交に与えた影響は特筆に値する。
 また明治41(1908)年から日本を訪れていたKarl Ernst Haushofer(1869-1946)に示唆を与えたのも、この「新旧大陸対峙論」であったと言われる。

(つづく)

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| 【2008/06/22 01:18】 | 地政學 | 被参照(0) | 意見(0) |
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