Das Begleitungswebportal für Großostasien

スポンサーサイト
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
| 【--/--/-- --:--】 | スポンサー広告 |
【祖父に】シベリヤ抑留【聞いてみた】
 筆者の祖父は抑留体験者である。祖父の書斎には、海部元首相の「抑留お疲れ様」という内容の書状が飾られている。
 今回は、筆者がこれまでに何回か聞いたことがある祖父の体験談を纏めてみることにした。

Q.戦時中は何をしていたか。
A.野戦郵便員の募集に応じて支那へ渡った。満洲から北京、天津の辺りを郵便物と共に列車で往復していた。
Q.ソ連に捕まった時はどこにいたか。
A.奉天。送られる前に、まず健康かどうかの検査をされた。検査と言ってもただ体格を見て外見から判断するのみである。合格したものは手招きされ、連れて行かれた。どこへ行くのかも分からなかったので、捕虜仲間に別れの挨拶をすることもできなかった。豆満江河口付近の港から船に乗せられた。日本に帰して貰えるとの一縷の望みもあったが、船の進行方向から見て左手に常に陸が見えていたため、日本に向かっていないことが分かった。到着したのは浦塩だった。17歳頃のことである。
Q.作業はどんなものであったか。
A.始めの頃は捕虜の食事係を経験した。しかし食事係は他と比べて割のいい仕事であったので、いつまでもさせてはくれなかった。他には農作業もあったが、一番恐ろしかったのは炭鉱での掘削作業であった。地下100mぐらいのところで坑木を組み、それを足場にして石炭を掘る。掘った石炭は下に落としてまとめてトロッコに積載し、地上に揚げた。落盤の危険と隣合せの作業であった。
Q.舞鶴に引き揚げた時の様子はどうであったか。
A.舞鶴港で共産党員が待ち構えていたのには難儀した。共産党員はソ連と連絡を取り合い、帰還者を入党させようとして詰め掛けていたのである。親族と党員による帰還者の取り合いが繰り広げられた。(祖父は)幸い親族が大勢迎えに来てくれていたので、無事に帰ることができた。
Q.入党させられた人もいたか。
A.シベリヤでの厳しい生活を知っているので、入党した者は少ないであろう。
| 【2008/02/03 13:33】 | 政治史・外交史 | 被参照(0) | 意見(0) |
<<「水泳部特集」完結! | ホーム | 舞鶴地方総監部訪問+「みねゆき」>>
意見
意見具申












管理者にだけ表示を許可する

被参照
被参照URL
http://daitouanavi.blog69.fc2.com/tb.php/40-8d724347
この記事を参照する(FC2ブログユーザー)
| ホーム |
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。