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ゼークトと戦間期の独支ソ関係
■Hans von Seeckt(1866-1936)

 ゼークトは、シュレスヴィヒ=ホルシュタイン州でユンカーのプロイセン将校の息子として生まれる。W・ラインハルトがカップ一揆の責任を取って辞職した1920年3月、彼は陸軍統帥部長官Chef der Heeresleitung der Reichswehrに就任した。
 ここで、彼の軍事思想について簡単に触れておくこととする。ゼークトによれば、戦争術においてより重要なのは近代兵器ではなく人間精神である。なぜなら、「剣には盾が、爆裂榴弾にはコンクリート地下壕が、毒ガスには防毒マスクが発明」されるように、優勢な攻撃兵器に対しては必ずその防禦手段が現れるからである。また彼はユンカー出身であるため、「国民軍Volksheer」に対して懐疑的であった。国民軍は軍紀を弛緩させ、軍の精神的価値を低下させる、というのである。従って優れた指導力と戦闘精神を併せ持った少数精鋭の「職業軍隊Berufsheer」が適切である。このようなゼークトの軍備方針は、ヴェルサイユ条約の軍備制限規定に意外にも適合していた。

以下、
■対ソ秘密軍事協力
■親華路線と在華軍事顧問団
のおはなし。

ゼークト将軍。片眼鏡がかっけえ



■対ソ秘密軍事協力

 ゼークトは間違いなく反共主義者であったが、それは彼の政治思想ではなく先述のような軍事思想に由来していた。即ち、共産主義思想は軍の拠り所たるべき国家への忠誠・義務感を破壊するのであって、これはエリート集団たる国防軍が本来的に排斥するところであった。しかしソ連を一個の国家権力として把握すると、このような反共意識は相対化される。「大ロシア的発展は…英の植民地の権威を脅かし、仏のヨーロッパ分断策を齟齬させ」、「ロシア革命の思想は…アングロ・サクソン資本主義と帝国主義に直接敵対する」。ソ連の国家権力と革命思想はいずれも協商国側にとって脅威である。従って、独ソは国際的疎外者として共通の立場に置かれている。ゼークトによれば、「われわれはロシアと絶えず接触し、可能な限りそれと諒解をつけておくことを余儀なくされている」。ただし「ロシアとの共同」は、「直ちに公然とロシアの側に立つ」ようなものではなく、国防軍増強のために好都合な限りにおいて秘密裏に協力するという限定的なものであった。
 国防軍は、特務班R(Sondergruppe R)及びモスクワ本部(Zentrale Moskau)などを通じて、政府の外交機関とは独立したルートを有していた。従って、ヴァイマル期の独ソ間には当初から少なくとも二つの交渉ルートが存在していたことになる。1921年、ソ連側は赤軍再建の援助を求め、これに応じてゼークトは3名の高級将校を軍事顧問としてモスクワに送った。またソ連軍需工業への独逸の援助に関する交渉が行われ、独逸の国費によって「工業振興会社」がベルリンとモスクワに設立された。これによって独逸は、ソ連領内でヴェルサイユ条約によって禁止された航空機・毒ガス・火器などを製造し、戦車や航空機のための兵員訓練を行った。更にこのソ連との秘密軍事協力はヴィルト首相も認識しており、且つそれに同意を与えていた。この協力関係は、1926年10月にゼークトがヒンデンブルク大統領によって罷免されてからも続き、1933年ヒトラーの政権掌握によって終焉した。

■親華路線と在華軍事顧問団

 対ソ秘密軍事協力を推進したゼークトの立場は、日本に対抗するための独支ソ同盟路線と近いものであった。また支那の側においても、孫文が一貫して独支ソ同盟を推進する勢力として存在していた。孫文によれば、「ソヴィエトとわが国の利害は一致」しており、更に「中国およびソヴィエトと提携し、相互に進んで利益を得ることができるのがドイツである」。ゼークトは遅くとも1922年に、孫文の側近である朱和中と軍事顧問の派遣について協議していた。更に1924年には、孫文の計画に基づき、一連の独逸人専門家が広州入りを果たしていた。独逸外務当局が得た情報によれば、孫文はジーメンス社上海支社長グスタフ・アーマンを通じてシャルロッテンブルク陸軍大尉及びその他3名の航空将校を雇用し、後に歩兵将校10名が広州で活動を開始するというのであった。それに加え、前青島総督シュラーマイアー提督が到着し、北京からパウル・ミューラー陸軍少佐が警察顧問として着任した。その他火薬技師として化学者シェーペ及びブース、元飛行士ハース、元軍人マッティルらが招聘されていた。しかしながら独逸による軍事協力は限られたものであり、これに失望した孫文は代わりにソ連に対して更なる顧問の派遣を求めた。ソ連は喜んでこれに応じ、60名の軍人を派遣した。しかし1927年の蔣介石による反共クーデターのため、ソ連との関係は終焉し、蔣介石は再び独逸への接近を試みた。1928年11月、蔣介石はマックス・バウアー大佐を経済顧問として雇用し、バウアーは初代軍事顧問団長に就任する。
 その後、1933年1月にヒトラーが政権を掌握し独ソ関係が悪化すると、独逸にとって軍事提携のパートナーとしての支那の重要性は高まることとなる。ゼークトは1933年に訪支し、国民党軍の編成に関する覚書を纏め、これを蔣介石に提出した。彼はその中で、国民党は巨大な軍隊を直ちに創設すべきではなく、代わりに「より小規模の、しかしよく訓練され装備された軍隊」を編成すべきであることを忠告した。また1934年、ゼークトは軍事顧問団長に就任し、顧問団を彼の直接の指揮下に置くこととなった。それと同時に彼は独支間のバーター貿易を推進し、腹心であるハンス・クラインがそのための機関としてHAPRO(工業製品商社Handelsgesellschaft für industrielle Produkte)を設立した。このようにして結び付けられた独支の貿易によって、独逸は支那にとって第二位の貿易相手国となった。1935年にゼークトは帰国するが、それ以後も彼は国民党との取引にロビイストとして関与していた。

■暫定的結論

 ゼークトの軍備方針がヴェルサイユ条約と全面的に衝突するようなものではなかったとしても、国際的疎外者としての共通の立場に基づく独ソ秘密軍事協力は米英仏にとっては好ましからざるものであったことは否めない。独ソ軍事協力が「秘密」のものでなければならなかった理由がそこにあり、従ってそれは一定程度は反ヴェルサイユ的であったと言わざるを得ない。また東アジアにおいては、国防軍の親華政策は孫文の独支ソ同盟構想に合流し、更に日支の対立が決定的となった満洲事変以降はそれは自動的に反日的な色彩を帯びることになった。
 ゼークトは以上のような独支ソ関係緊密化の一端を担ったといえる。

参考文献
  • 富永幸生『独ソ関係の史的分析 1917-1925』岩波書店、1979年

  • 林健太郎『ワイマル共和国』中央公論社、1981年

  • ゲルハルト・クレープス「在華ドイツ軍事顧問団と日中戦争」(軍事史学会編『日中戦争の諸相』錦正社、1997年)、299-318頁

  • 服部龍二・土田哲夫・後藤春美編著『戦間期の東アジア国際政治』中央大学出版部、2007年

ジャンル:政治・経済‐テーマ:歴史

| 【2008/07/02 00:06】 | 政治史・外交史 | 被参照(0) | 意見(0) |
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