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新京特別市:都市形成の特色
 「一〇万の生霊と二〇億の国帑」によって購われた満洲に建設された満洲国、その首都が新京特別市である。
 新京は大陸の荒漠たる原野に突如として出現し、我が国の敗戦とともに多くの在満邦人の生命財産もろとも滅亡した。当時新京に在住していた栗原仲道氏は「新京よ。ああ私たちは君の名をいかばかりか誇りをもって呼んだことだろうか」と郷愁を込めて回想する。そのような誇りは故無きものではなく、まさに新京は、当時の日本がその威信をかけ、持てる都市建設技術の総力を結集した近代都市であった。
 新京は世界を代表する都市の傑作でありながら、その事実は日本でも世界でも殆ど知られていない。本稿においては、新京とその前史となる長春の形成を検討することにより、新京都市発展の特徴を指摘する。
■前史:日露戦争から満洲国成立まで

 長春の地には18世紀末より入植者が増加し、満洲人・蒙古人・漢人による集落が形成されていた。1865年、地元商人らは匪賊の攻撃を防ぐために独力で城壁を築いた。この一帯は後に「城内」と呼ばれる市街地となる。
 1901年にはロシア帝国の国策会社である東清鉄道会社によって、東清鉄道南満支線が敷設された。寛城子駅が長春城の北方に設けられ、その付近はロシアの鉄道付属地となった。
 1905年、日露戦争の結果として日本はロシアより東清鉄道南満支線を獲得し、長春は日本とロシアの鉄道分割地点としての重要性を持つことになった。また寛城子付属地の南方、長春城の北方地点に日本の鉄道付属地が獲得された。1906年に設立された南満洲鉄道株式会社は、長春の鉄道付属地の市街計画を1908年に立案した。長春駅南側に広がる街路は矩形式街路と斜路によって構成され、重要地点に広場が数箇所設けられた(長春1913年及び1920年の地図参照)。付属地においては停車場、満鉄社宅、糧桟(穀物商)などの土地利用が大きかったが、他に公共事業として長春ヤマトホテル、領事館、病院、小学校、上下水道などが建設された。また市街地造成の完了後、公共用地以外の土地は民間に有料で貸付けられた。
 1909年、支那の現地官憲は城内と満鉄付属地の間に商埠地を設定し、その開発を計画した。これは満鉄付属地の市街計画の実施に対抗したもので、満鉄付属地によって経済的繁栄が奪われることを防ぐためのものであった。しかし商埠地は当初の目的とは裏腹に、満鉄付属地と城内を結びつける役割を果たすことによって長春全体の発展に貢献した。商埠地及び城内の街路も矩形式であり、主要な街路は整備されてはいたが、降雨時には馬車が嵌る水溜りが少なからずあった。一方で、市街地外の道路は殆ど整備されておらず、特に降雨時には交通が全く途絶する有様であった。
 1922年の時点における人口は、満鉄付属地で日本人8007人、支那人14521人、その他外国人250人、城内及び商埠地で支那人140001人、日本人482人であった。

■満洲国成立以後

 1932(大同元)年3月に満洲国が誕生し、4月1日国務院布告によって首都を長春とし長春を新京と改称する旨が公布された。同時に、満鉄経済調査会及び国都建設局によって国都建設計画の立案が開始された。この時期、満洲国への投資に関心を持っていたのはフランスであった。フランスは満洲国独立にかなり同情的な姿勢を示し、フランス・シンジケート団と満鉄の合弁による満洲開発会社の設立を極めて真剣に考慮していた。しかしこの計画は、軍・満鉄・新京特別市それぞれの外債への反対意見に圧され、実際にフランス借款が導入されたのは官庁舎の建設にとどまった。
 1933(大同2)年、国都建設計画第一期事業が開始された。市街地は国都建設局によって整備された後に、北部から南部へ順に売却されていった。1933(大同2)年度に大同広場、興安大路、豊楽路、安達街一帯が、1936(康徳3)年度には興仁大路、吉林大路、伊通河東方の一帯が払い下げられた。新京の都心は大同広場とされ、政治中枢は安民広場から順天大街に亘る官庁街、文化・教育中枢は南嶺広場、交通中枢は南新京駅とされた(新京1934年の地図参照)。
 街路は放射状、環状、矩形式のそれぞれの長所が巧みに取り入れられ、世界の都市計画の事例と比較しても極めて優れたものとなっている。重要地点には公園を兼ねた円形広場が設けられており、その中で最大のものは直径300メートルの大同広場である。更に円形広場は、公園を兼ねた広幅員道路(苑路)によって結ばれている。これらの広場及び広幅員道路は、防空都市計画の観点から、首都機能を分散させる役割をも果たす。幅10メートル以上の道路は総て舗装され、更に幹線道路では、美観を保つため電柱・架空線等の建設を禁止し、代わりにこれらを地下・裏通り(背割道路)に収容した。背割道路は幅4メートルであり、これは新京において最小幅員であった。このような空間的余裕のために、新京の居住環境は極めて良好であったといえる。ただし整然とした町並みには商店街が殆ど無く、新市街の住民は生活物資の調達を商埠地や城内に依存せざるを得なかった点が不便であったようである。公園、広場、街路の名称の選定については、建国の理想を如実に表現し得るもの、響きの良さ・記憶しやすさ、土地の因縁などが考慮された。また街路のうち南北方向のものを「街」、東西方向を「路」とし、幅38メートル以上のものを「大街」「大路」とした。更に新京外周には国防施設として環状道路が建設され、その沿道に植樹が行われた。
 新京において水源の確保は喫緊の課題であり、これは地下水及び浄月潭貯水池建設により解決された。下水道は、汚水と雨水を分ける分流式が全面的に採用された。雨水は伊通河支流の雨水調整池に蓄えられ、これにより非常水源が確保された。また伊通河支流は総て親水緑地帯とされた。この結果、新京は世界最高水準の緑化・親水都市の様相を呈するに至ったのである。更に新京は衛生都市でもあった。支那の都市では一般的に便所が存在せず、従って井戸には汚物が流れ込み(*1)、雨が降れば道路は汚物まみれの状態で、極めて不衛生であった。新京においては行政指導によって、一戸の例外もなく便所の水洗化を達成したが、これは亜細亜では初のことであった。汚水は、伊通河河畔の浄化施設において処理の上河川に放流された。
 国都建設計画第一期事業は1937(康徳4)年12月に完了し、翌年1月1日より新京特別市の臨時国都建設局によって第二期事業が開始された。ここにおいて南嶺一帯の文化都市化が検討され、国立総合運動場の改良、動植物園、協和広場、大学の整備が決定された。またこの時期、地下鉄の建設が計画され、大阪市交通局の技術陣がこれの検討に当たったが、戦争による資材不足のため断念された。その代替として1941(康徳8)年1月、路面電車の敷設が決定された。路面電車は当初、架空線を必要とし騒音が大きく、また交通事故の危険があるため採用しない方針であった。路面電車導入決定により、次善の策としてメインストリートを避けたルート選定がなされた。
 1939(康徳6)年の時点における新京の人口は、日本人(内地人・朝鮮人・台湾人)107918人、原住人(満・漢・蒙・その他各民族)306376人、その他970人であった。これは1931年の長春の人口(日本人12467人、原住人114345人、その他199人)と比較すると、飛躍的倍増であることがわかる。

■おわりに

 満洲国成立以前の長春においては、満鉄付属地において近代的都市計画が実施されたものの、本格的都市形成のためにはやはり満洲国成立を待たねばならなかったように思われる。もちろん、それは長春が満洲国の首都としてその重要性を飛躍的に増加させたためであったことは当然である。しかし戦前の我が国が有していた近代都市計画の理念・技術なくしては、新京のような水準の都市建設は不可能であったと考えられる。
 新京の都市計画の特徴は、以下の点にまとめられる。①空間的余裕を持った防空都市。②街路・建築物などの美観。③広大な面積の緑地帯を持つ緑化都市。④自然の小河川が生かされた親水都市。⑤水が清潔に管理される衛生都市。越沢明氏は、新京の都市計画を検討することによって、現代において諸都市が直面している都市問題を解決するための示唆を得ることができる、と論じる。特に緑化都市・親水都市としての新京は、「潤いのある街造り」を目指す現代日本のいかなる都市よりも先進的である。従って新京の都市計画の検討は、今日において極めて大きな意味をもつものと思われる。

(*1)いわゆる「石井731部隊」の所業として、例えばコレラ菌を井戸へ投げ込む様がしばしば語られてきた。しかしここから分かるように、わざわざ石井部隊が細菌戦を展開せずとも支那の井戸はきたないのである。

参考文献
  • 宗石編『長春沿革史』滿蒙文化協會、大正12年

  • 新京特別市長官房庶務科編『國都新京』滿洲事情案内所、康7年

  • 孫化南編『新京の概況』新京商工公會、康9年

  • 栗原仲道『新京の地図』経済往来社、昭和57年

  • 越沢明『満州国の首都計画 東京の現在と未来を問う』日本経済評論社、1997年


地図資料
  • 中川浩一編『近代アジア・アフリカ都市地図集成』柏書房、1996年(28頁に1913年及び1920年の長春地図)

  • 地図資料編纂会編『近代中国都市地図集成』柏書房、1986年(33-38頁に1934年の新京地図)

ジャンル:政治・経済‐テーマ:歴史

| 【2008/07/21 11:47】 | 政治史・外交史 | 被参照(0) | 意見(0) |
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