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極東における国防軍の諜報・謀略活動について
 独逸国防軍情報機関Amt Ausland/Abwehrの支部であるDienststelle Istanbul(Istanbul機関)及びKriegsorganisation Naher Osten(あえて翻訳すると「近東軍事機関」:Kriegsorganisationとは、Amt Ausland/Abwehrによって使用された、中立国等の大使館や領事館に設けられた活動組織の名称)の長であった、Paul Leverkuehnによる極東における活動に関する記述がなかなかに興味深い内容であったので、該当部分を引用します。(翻訳は筆者による。かなりテキトー且つ直訳丸出しなので読みにくいかもしれませんが、ご容赦を。)
 ソ連を亜細亜へ逸らす(独逸の)企てが成功しなかった一方で、ソ連はある独逸の計画、即ちイギリスをアフガニスタン及びインドにおいて困難に陥れる計画に同意を示した。アフガニスタンでは、親英派の国王を片付け、Rom(ローマ)に亡命中のAmanullahを再び王位につけることが重要であった。それにより、とりわけインド北西部国境の山岳部族であるWaziri、Mohmand、Afridisを使うことによって、インドにおける著しい妨害活動を行うことができる。この運動はIpiのFakir(行者)として知られるHadji Mirsa Ahanを通して開始された。この考えは党(筆者注:たぶんNSDAP)においても積極的に支持された。これを委任されたのはHabichtであり、彼はオーストリア問題において重要な役割を果たした人物であった。
 Molotow(筆者注:ソ連外務人民委員)にはアフガニスタンにおける計画に同意する用意があった。しかし独逸側においては、Rosenberg(筆者注:ナチ党外交政策局局長)はソ連に接近しすぎることに対して疑念を示しており、Canaris(筆者注:国防軍情報機関Amt Ausland/Abwehrの長)と外務省もまたHabichtの「インドのおとぎ話」に対して不信を以って接していた。それ故この計画は水泡に帰することになる。
(中略)
 インドの民族主義的指導者であるSubhas Chandra Boseが1941年にBerlinに現れたとき、インドにおける計画は新しい段階に入った。1941年初めに彼は、アフガニスタン支部要員でOrganisation Todtの長であった独逸人道路建設技師に付き添われ、アフガニスタン‐ソ連国境を越えた。ソ連はBoseの存在を公式には認めなかったが、良い宿舎を用意し滞在の負担を軽減するよう努めた。インド革命は完全にソ連の利益に適っていた。
 MoskauでBoseは駐ソ・独逸大使Schulenburg伯爵と協議し、その亜細亜認識に感心させられた。このことを彼は、後にCanarisとの会談の中で繰り返し強調している。
 Boseは独逸において、英兵捕虜として捕えられていたインド人の政治的・組織的掌握に精力を傾けた。彼らインド人捕虜はたいてい、アフガニスタン戦線において独逸側に投降し或いは寝返った者たちであった。Boseとそのインド人同僚は彼らをイギリスに対する闘争に奮い立たせ、独逸の指導の下インド人軍団において基本的訓練を受けさせた。
(中略)
 軍事訓練に際して命令は独逸語で与えられたが、共通の意思疎通のための慣用語に対しては英語の解説が付け加えられた。インド人はとりわけ白兵戦の兵士及び偵察隊長として有能であることが判明した。好戦的Sikhは、以前からイギリスによって軍・警察の要員として好まれ、独逸国防軍の軍事訓練に際しても兵士としての必要条件を満たした。
 Boseは軍事訓練に対して最大の関心を寄せていた。選り抜きのインド兵は、Abwehrの自由使用に供され、サボタージュや破壊工作のために訓練された。コーカサスを通過しペルシャ湾に至る進撃が夢想されていた折には、インドの独立部隊を空挺降下させ全インドの叛乱を引き起こすことが計画されていた。
(中略)
Boseは決して(独逸に対する)協力者などではなく、インドのために―独逸の利益を利用して―活動する愛国者であった。1942年晩秋、彼はCanarisにこう告げた。「あなたも独逸が(イギリスに対する)この戦争に勝てないことは分かっているだろう。しかし他方でイギリスはインドを失うことになる。イギリスは、インドにおける主権を放棄するという1940年の言葉を避けることができない。」もはや独逸がBoseに独立闘争の基盤を築くための何の可能性をも提供できないということが明らかになった時、彼は日本との接触を持った。1943年2月、彼はU-190に搭乗し、インド洋において日本の潜水艦に乗り換えた。彼は日本からビルマへ行き、1943年6月、小規模のインド独立部隊と日本の盟友と共にビルマ‐インド国境を越えた。独逸が崩壊した後も、彼はイギリスに対する密林での戦闘を継続した。
(中略)
 独逸に取り残されたBoseの支持者たちは、Indische Legion(インド軍団)に纏められた。彼らは1944~45年に高射砲操作兵や海岸警備兵として西部に投入された。
(中略)
 * * *
 深刻化しつつある大西洋における通商破壊戦争とその全海洋への拡大は、1940年初めに「太平洋圏における敵国戦争経済への攻撃は可能か」という問いを導き出した。
 日本側からは、タングステンやその他の戦略物資の東亜細亜からイギリス本土への輸出が増加している旨の情報が提出されていた。利用される港は、Schanghai(上海)、Kanton(広東)、Manilaなどであった。アフリカ東岸において、潜水艦や水上艦によってそのような通商に打撃を与える試みは、全く成果無く終了した。支那海まで突き進むには潜水艦の航続距離が足りず、そのような遠大な企てもまた不可能であった。
 しかしながらソ連との友好関係が存在していた折には、Handelszerstörer(筆者注:あえて翻訳すると「通商破壊駆逐艦」)の密かな通過の方法が魅力あるものとして存在した。即ち北東航路(筆者注:北極海を通って大西洋側と太平洋側を結ぶ航路)を通って太平洋に至る道である。日本との友好関係がその計画を援助したが、それは二つの前提に基づいていた。第一に、北東航路の完全な隠密性を保った通過、第二に、太平洋圏における通信による充分な援助、即ちとりわけ戦争の影響で変更された商船の航路、交通量、敵の防衛措置に関する航空機・無線通信による情報提供、であった。
 独逸のAbwehrと日本海軍情報部の間には、Canarisの指示で戦争勃発前から緩やかな接触が存在していた。しかしながら1930年代の世界情勢には、近いうちに太平洋における通商破壊作戦の可能性を当てにすることはできなかった。問題は、最短期間で亜細亜大陸から太平洋へ至る偵察活動を拡大させることにあった。それに応じて、太平洋に面する港に可及的速やかに情報網を整え、それにより船舶の航行等に関する情報を得るという任務が与えられた。
 東亜細亜の複雑な政治的関係において情報機関を設置するという任務を誰に委任するかという問題に関して、Canarisは一人の第一次大戦時の海軍将校を選んだ。彼には東亜細亜での経験はなかったが、中東において商人として活動することにより、異例な任務に順応する能力を示していた。その派遣将校はこう報告している。
 「なによりもまずSchanghaiは情報機関の設立に適していた。ここには重要な海上交通の利益が集結しており、海上交通の補給・修理・装備のための総てを提供していた。加えて様々な国籍の人々が居住しているので、情報伝達者の調達のために有利な場所となっていた。他方でこの街とその人々の複雑さは、情報将校に慎重な人物評価と真の背景に対する認識を要求した。
 実際は、比較的短期間でWang-Poo(不明)及びYang-Tse-Kiang(長江)における航路を確認することに成功した。しかし、さしあたってSchanghai‐Berlin間の無線通信の調整が、若干の困難に直面していた。以前に取り決められていた計画では、一流の通信兵がSchanghaiに派遣されることになっていた。これはしかしながら、偽装上の理由からその機器を個人的に運び込むことはできず、破損品としてSchanghaiに到着することになってしまった。現場で交換部品を調達することが試みられたが、この際、敵情報機関の注目を引かないために外観上の注意が払われた。しかし結局は何もできず、機器の重要な部分を再度Berlinに要請することになった。もちろんこの伝達のために一箇月が失われた。BelzigのAbwehr通信所との連絡が確立された後、益々増加しつつある報告文の送信が実行された。
 より大規模な情報収集のためには、例えばTientsin(天津)やKantonのような更なる拠点が必要であり、そして可能ならばフィリピンやオーストラリア海岸付近の海上交通への浸透もまた必要であった。TientsinやTsing-Tao(青島)は組織の活動の次なる目標であった。これらの場所もまた確保され、Schanghaiの恒常的な情報機関に接続された。
 南支那の港湾都市における情報収集は困難な状況になっていた。独逸人情報将校のそちらへの浸透は不可能で、それは日支の戦線がKantonへの陸路を遮断し、またイギリス巡洋艦の臨検で日本船による渡航も不可能であったためである。
 従ってKantonへの情報収集はSchanghaiから行われ、情報提供者の証言が使われた。それ故情報の伝達に重大な遅延が生じ、Schanghaiに到達する頃には現実的に価値が無くなっていた。この状況を改善するため、私はNankingを戦線があるにも関わらずKantonへ通過する試みを企てたが、Nankingの南方で諦めざるをえなかった。というのは、日本軍の軍政が作戦地域に外国人の存在を許さなかったためである。しかしヨーロッパ人としての私には、支那人として偽装することは不可能であった。ここに、異なる肌の色が独逸人情報将校に乗り越えがたい境界を設けていた。また私には細い目も無かったのだ!
 Seekriegsleitungの使用に供せられた太平洋圏からの情報は、敵海上交通に損害を与えるための必要条件を提供した。それらは、北東航路を横断するHilfskreuzer(仮装巡洋艦)に、太平洋の情勢について早期に通知するために使われた。それにより、海上交通線を敵に気付かれずに切断し、またオーストラリアの港湾沖に不意な機雷敷設を行うことが可能となった。
 太平洋における敵海上交通の監視は、更にまた、大西洋における敵護衛船団のやり方とアフリカ沖における構成についての推論を導き出した。敵船は太平洋では個々に航行する一方で、イギリス本土へ向かう時はその都度決められた場所に集合していた。
 従って、大西洋における潜水艦作戦に影響を及ぼす相互作用が、Schanghai機関を通して引き起こされていたと言える。
 1941年12月初めの日米戦争の勃発に際し、Schanghai機関の活動は、独軍の太平洋作戦に関する限りでは終わりを迎えた。しかし機関は、1941年終わりまでに著しく拡大され、戦況に合った任務と役割を与えられ、戦争終結まで維持された。」

文献
  • Paul Leverkuehn: Der geheime Nachrichtendienst der deutschen Wehrmacht im Kriege, Frankfurt 1957, S. 175-183

ジャンル:政治・経済‐テーマ:スパイ

| 【2009/03/31 18:33】 | 諜報・防諜戰 | 被参照(0) | 意見(0) |
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